“自分自身も表現者としての立場でありつつ、別の作家の展示を企画する”
いまさらこのような行為を特別視する必要もないほど、現代美術の枠内ではありふれたことだと思います。
歴史としても前例はいくらでもあることです。
それでもなお、このような活動をやろうと思うのは、美術史上の文脈としての見地や、そういう立場を安易に確立したいからではありません。
それ以上に僕にとって何より重視すべきなのは、展示という企画を用意することで生まれる、対する作家(他者)との対話の過程なのです。
対話することで必ずといっていいほど、共有しているべきの、ある対象の価値や意味、意義に齟齬や衝突の場が発生します。
意味の浮動性、多義性などによって実は個人の発言は擁立されているのであり、その延長線上にあるのが社会、芸術・文化だと僕は思います。
日常であれば同意できる意見は共有し、反目し合えば、まあ、そういう考え方もあるよねと、半ば切り捨てる。
ありふれた大人の対応ですが、僕はこの企画であえてそれをしたくありません。
反目し合ってもそれを飲み込むことを前提に対話を重ねたい。
そうすれば、 "多面的な意味"という上っ面の隠れ蓑を暴くことが出来るかもしれません。
企画されることで共有される問題や仮定について同時代的な感覚をもとに、漠然としたものを具体的な形へと昇華するような対話作業を通して、その時代性、現社会内の形といったものを見つめなおすための深い実践を試みる。
恐らくこれは、ある種、極めて個人的で特異な価値観を決定した芸術家同士との恊働であるからこそ、意義あるものになるのではないかと僕は思います。そして、そこには僕の制作主題である“言語というもの”の研究にも関わりがあるのです。