2015年5月から約一年、継続的に開催する自主企画展。
全四回にわたって作家の活動を原理的かつ実験的に捉えなおす試みとする。
「いしをできるだけ遠くへうつす方法」
何かを作り出すということは、記号を産み落とし世界に向けて送りだすということだ。
他者と、時間の推移の関係によって変動する解釈とその流通の世界へと。
その前提としてあるのは、ある種ドメスティックな関係性。
作品と、それを作り出す者との親密かつ閉塞的な関係性がその最小単位となる。
しかし、「無からは何も生じない」
この格言が示す通り、
何かを作るためにはそれに先行する思想、視覚情報、知識、環境といった
複合的な土壌がその者に備わることが必要となる。
この土壌を形成する要素は、だがまた記号だ。
幾つもの性質をもち、社会性と歴史を獲得した記号の大群。
それを自らの思考と身体、物理的かつ生理的、
また精神性を連合させる人体という複雑なメディウムに介在させることで、
抽出あるいは昇華、濾過、圧縮…、
いずれにせよ何らかの手段によって為された、
作品という名の新たな記号が生まれる。
変遷を辿ることを運命付けられて。
このひとつの記号は、あるひとつの時点と断面だ。
それはチャールズ&レイ・イームズの「Powers of Ten」が掲示した世界の視点のごとく、
巨視と微視からなるこの双方向に向けられた連綿たる運動に組み込まれて在るだろう。
幾つもの先行条件に身を晒しつつ、
記号を産出する者として自覚を持ち、ある時点と断面の属性を設定すること。
この行為に宿る主体性とは何だろう?
作品という「ここ」に「宿す」という行為において、脈々たる記号の堆積を負いつつも、
なおそこで選び抜かれる手段のその選択と決定とは何だろう?
そこでは作者のアウラの存在を問われているのではない。
記号が晒されるその膨大な解釈とそれに応じた流通に対する賭け金としての、
多重に移ろう主体性をこそ問われる。
つまりこの主体は記号が辿る運動の中で分化を余儀なくされ、
だがまたそれを糧とし信託される主体は、その先に待ち受ける未来を得ることが叶う。
自らが作り出すモノが、既定されること(過去)を前提とし、
改編されること(未来)をまた前提とする。
質量を十分にもつ、いしをできるだけ遠くへうつす方法。
今にあって私は、これを試みなければならない。
(制作メモより抜粋)